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志•プロフィール

-こころざし-

鋼の自己肯定感とは?

「上司に褒められて自己肯定感が上がった」

「試験に失敗して自己肯定感が下がった」

「自己肯定感が高い子に育てたい」

自己肯定感という言葉が浸透して、こんな会話を日常で耳にするようになりました。

けれども自己肯定感という言葉が日本の歴史では比較的新しい言葉であることもあり様々な定義が存在しています。

 

私は自己肯定感を次のように定義しています。

ありのままの自分を無条件で受け入れ愛すること

そこには、何かができるという感である「自己効力感」や誰かの役に立っているという「自己有用感」は含まれていません。自己効力感も自己有用感もとても大切な概念です。でも私は敢えて自己肯定感とこれらの概念は切り離してお伝えしています。

 

たとえ何ができなくても、たとえ誰の役に立っていなくても、それでも無条件で自分を受け入れ愛する。何かができるという条件や、誰かの役に立つという条件なしに、「存在レベル」で自分には価値がある。存在レベルで自分は生きていてよいし、愛し愛される価値がある。それが私がお伝えしたい鋼の自己肯定感です。

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自分の世界一の親友になる

人生で一番長い時間を過ごす人。それは自分自身です。

私たちはその自分と敵になることもできれば、

親友になることもできます。

私がお伝えしている自己肯定感は、

「ありのままの自分を無条件で受け入れ愛すること」

であると共に、

「自分の世界一の親友になること」

でもあります。

今どんな状態でも、何があっても、自分を受け入れ、励まし、応援してくれる人に自分自身がなること。

それができれば心がいつも安定し、人生もどんどん好転していきます。

自己肯定感は決意である

もう1つお伝えしたいこと。

 

それは「誰でもいつからでもどこからでも自己肯定感を高めることができる。そして本物の自己肯定感を身につければ二度と下がらない」ということです。

 

自己肯定感を高めるには自分を受け入れられない理由、つまり条件を特定してそれを1つ1つ外していけばいいのです。

過去に何があっても、今どんな状態でも、将来何があっても、ありのままの自分を受け入れ愛すると決めてしまえばいいのです。

決意なら、誰でもできますよね?だから自己肯定感は決意なのです。

傷ついている人が、人を傷つける

英語に、こんな言葉があります。

 

Hurt people hurt people. (傷ついている人が、人を傷つける)

 

戦争、テロ、いじめ、DV、鬱、自殺。地球上のありとあらゆる問題の根底には自己肯定感があると私は考えています。ありのままの自分が心から大好きで、自分の無限の可能性を信じて、毎日わくわくドキドキ暮らすことができれば、人や自分を傷つけている暇はありません。

 

一人でも多くの人が、存在レベルで自分には価値があり、今どんな状態でも自分には無限の可能性があると信じられるように、私は活動しています。

世界平和は一人一人の心の平和から

一人一人の心が平和であることが世界平和に繋がると私は考えています。ありのままの自分が大好きで、自分の無限の可能性を信じることができれば、人を恨むことも人を羨む必要もありません。

 

鋼の自己肯定感を持つ人が一人でも多く地球上に存在することで、世界が平和になる。

その一助になりたい。

 

それが、私の志です。

プロフィール

プロフィール

私は三重県の小さな漁師町で生まれました。共働きなのに母だけが家事も負担しているのを見てフェミニズムに目覚めました。また女性は3歩下がって歩くという田舎の保守的な雰囲気に馴染めず、片岡義男さんの小説を読み、海外が舞台のアニメや映画を見ては、日本脱出を夢見て育ちました。

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海外で暮らすには英語が必要です。英語は私が一番好きな科目でした。フェミニストを誇る私は津田塾大学の英文科に進みました。卒業後、念願のアメリカ留学を果たします。英語に慣れるためにミネソタの小さな大学で大好きなファッションを学んだ後、イリノイ大学アーバナシャンペーン校で社会言語学、心理言語学、女性と言語、日本語の教授法などを勉強し、修士号を取得しました。

 

卒業後は、コンピュータ化の波に乗れず仕事で苦労した父の敵討ちのつもりで、コンピュータ業界に入りました。身につけた英語力を活かして日本で外資系のコンピュータ会社でプロダクトマネジャーや開発エンジニアの仕事に就きました。

その後大学院で出会ったアメリカ人の元夫と結婚してシリコンバレーに移住。シリコンバレーでいくつかのスタートアップ企業にマーケティング担当とて勤めた後、元夫とソフトウエア会社を立ち上げました。アメリカ国内はもとより、日本やカナダ、イギリス、オーストラリアなどの小売店でパッケージソフトを販売しました。このソフトウエア会社をシリコンバレーの大手のコンピュータ会社に売却。

 

ソフトウエアの会社を経営している時に、稲盛和夫さんの盛和塾シリコンバレーに入塾させていただきました。そこで8年以上に渡り、広報を担当。稲盛さんの教えを地元の日本語コミュニティー紙に発信していました。盛和塾には斎藤一人さんのファンも多く、私も斎藤一人さんのご著書を読んだりお話を聞いたりするようになりました。斎藤一人さんの一言「愛の反対は恐れ」が気になって調べたことから、「奇跡のコース(A Course in Miracles)」を発見、そしてそれを実践しているアランコーエンさんに辿り着き、アランコーエンさんの元でコーチとしてのトレーニングを受けました。アランさんがトレーニングで見せてくれたアンソニーロビンズさんのビデオがきっかけで、アンソニーロビンズさんのプログラムでもトレーニングを受けることになりました。

 

現在は離婚してサンフランシスコ•ベイエリアで娘とワンコの二人と一匹で幸せに暮らしています。

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鋼の自己肯定感を育てるコーチへの道

私たちの過去に経験したこと、過去に抱いた想いが現在の自分を作り出しています。私が鋼の自己肯定感を育てるコーチになったきっかけは、こんな3つの経験と想いです。

(1)父はどう生きればよかったのか

私の父は54歳という若さである日突然亡くなりました。細かい話は割愛しますが、父は田舎の優等生で、英語も数学も美術もディベートもなんでもできて生徒会長も務める人気者だったそうです。当然東大に合格できると周りから期待されていたようですが、東大受験に三度続けて失敗。「失敗」を知らなかった父は、その「失敗」から一生立ち直ることができませんでした。

 

大好きな父にもっと長生きして欲しかった。父が持っていた、たくさんの才能を活かして幸せに生き生き人生を謳歌して欲しかった。

 

生きていたらさほど年齢が違わない稲盛和夫さん。一代で数兆円規模の会社を2つも立ち上げた稲盛さん。その秘密はどこにあるのだろうと思ったのが、実は盛和塾に入ったきっかけでした。

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斎藤一人さん、アランコーエンさん、アンソニーロビンズさん、色々な方々の教えも聞き、漸く辿り着いた答えが「自己肯定感」だったのです。

 

父の自己肯定感は「条件付き」だったのです。「勉強ができる」という条件付きの自己肯定感だったのです。東大に入れなかったことで「勉強ができる」という条件がなくなってしまった途端、父の自己肯定感は脆く崩れてしまいました。

 

大事なのは条件付きで自分を受け入れ愛することではなく、条件なしで自分を受け入れ愛すること、だったのです。東大に入れても入れなくても、自分の価値は一ミリも変わらない。そのことに父は死ぬまで気づかなかったのだと思います。

(2)私はどう生きればよかったのか

私の家族は母方は全員お医者さんです。母の父は内科医でした。母の兄は歯科医、弟は内科医、そして妹はお医者さんと結婚しました。六人いる母方の従兄弟は女性も男性も全て歯科医または医師になっています。父方は文学系で、父のお父さんは早稲田の文学部を卒業しました。父は東大の文学部を目指していたと聞いています。田舎の漁師町では珍しいインテリ家族で、ちょっと浮いた存在でした。

 

そんな環境で育ったせいか、私はまじめで勉強大好き、クラスではいつも一番でないといけないと思い込んでいました。地元の公立の小学校で仲良しの友達に囲まれて学級員をし、放送部でお昼の放送をし、幸せな小学生時代を過ごしました。そして、もっと勉強したいと自ら志願して三重県で一番と言われている中高一貫の私立の学校に入学しました。

 

これが私の人生の大きな転機になりました。受験に合格して嬉しいのも束の間、私は「もはや私はクラスで一番ではない!」という事実に直面しました。三重県中から優秀な子供達がやってきているので当たり前のことなのですが、私はそれを受け入れることができませんでした。

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「クラスで一番の成績=私」という公式が成り立たなくなってしまったのです。クラスで一番ではない自分が恥ずかしくて、地元の中学校に行った小学校の時の親友達とは会うことができなくなりました。そして誰に言われたわけでもないのに、自分で勝手に「一番でない私は人から好かれない」と決め込んでしまいました。

 

自分で撒いたタネですが、お陰でとても暗い10代を過ごしました。

 

そう、父のみならず、私の自己肯定感もやはり「条件付き」だったのです。しかも全く同じ「勉強ができる」という条件だったのです。父の場合は、それが東大受験失敗で露呈したのですが、私は地元の名門進学校合格で露呈しました。

 

今思えばほんの小さな心のもつれだったのですが、これを誰に話すこともできず、長年放置したために、長年に渡り私の人生にとても暗い影響を与えました。

 

10代の頃に「クラスで一番でも一番でなくても、つまり『条件なしで』自分を受け入れて愛していいんだよ」ということ知っていたら、その先の人生随分異なるものになっていたでしょう。

 

それほど自己肯定感というのは大切なものなのだと今は思います。

(3)「心」が困った時はどうすればいいのか

共働きの両親は、常に土日返上で働いていて、いつも忙しそうでした。けれども私が勉強のことで困ったり、健康上の問題があったりすると、忙しい手をすぐ止めて真剣に話を聞いてくれました。苦手な科目があれば、すぐに良い塾や家庭教師を探してくれました。健康上の問題があれば、すぐにお医者さんに電話をして病院に連れていってくれました。

 

しかし、心の問題があった時は、両親に話そうとしても、「それは時が解決するよ」と忙しい手を止めてくれることはありませんでした。生きるか死ぬかの戦争を体験した親にとっては「心」の問題に向き合うというのは贅沢だと考えていたのかもしれません。また、その当時はきっと「ライフコーチ」という言葉はほぼ存在していなかった(していたとしても99%以上の人が知らなかった)のだと思います。私が抱えていた「心」の問題というのは、すぐに向き合うことができていたら、おそらく大したことではなかったと思います。

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「クラスで一番でない私は人から愛される価値がない」それが私が抱えていた「心」の問題でした。当時はノイローゼになるほどものすごく心が病んだら人目を忍んで精神科に行くという発想はあっても、私が抱えていたような悩みは放置しておくものだったのです。

 

物理が苦手なら物理の家庭教師を見つけて教えてもらえばいい、足が痛いなら、足が専門のお医者さんに見てもらえばいい。そのことを私の親も私も知っていました。でも私が抱えていたちょっとした勘違い、心のもつれは専門家に診てもらうという発想が誰にもありませんでした。もちろん、それはそういう時代だったからで、誰のせいでもありません。

 

誰もが気軽に人目を憚ることなくカウンセラーやコーチに会うことができるようになった今。本当にありがたいことだと思います。

 

私が10代の時、本当に必要だったこと、つまり、心に耳を傾けて、心のもつれを解きほぐしてくれる人、そんな人になりたいと思ったのが、ライフコーチの道に進んだきっかけです。

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